日米Tagging比較-Google Trendsの場合-

サイボウズの秋元さんのブログや、サトウマサヒコさんのエントリでもふれられている、今週発表されたGoogle Trendsがちょっと注目されているようだ。はてなブックマークでもちょっと盛り上がった。英語圏ソーシャルブックマークの雄、del.icio.usでも同様に注目されている。注目のされ方の違いはどこにあるか?Googleのサービスのように、日米両方でプレゼンスがある場合じゃないと、なかなか、こうした比較ができないので、好材料だと思ってちょっと覗いてみた。日本のサンプルとしてはてなブックマーク、米国の例としてdel.icio.usとしてしまっているが、この設定が正しいかどうかは気にしないことにする(はてながとんがっていることはよくわかっているし、del.icio.usが米国内でもかなりとんがっていることもよくわかってます、だからこれが合衆国の代表だと思ってない。けどとんがり具合が結構よく似てるんですよ)。

まず、http://www.google.com/trendsブックマークの絶対数。日本時間2006年5月12日1:52時点(数分の誤差はお許しを)。

はてなブックマークhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.google.com/trends

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del.icio.ushttp://del.icio.us/url/e10c38c28a9e5149c316f8bb1219263b

Google Trends
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del.icio.usのアカウント数を知っている人がいたら教えていただきたいのだが、はてなが、187人に対し、del.icio.usは1067人。6倍近い開きがある。

では、タグの内容はどうか? 

クラウドからタグ数の多い順にソートしてみる。はてなのほうでタグ数の表示がないのは、すべて1とみなして適当にならべている(はてなで、あるURLのタグ毎のブックマーク数を調べる方法があったけな)。下記付録参照。

上位10だけに注目した事実だけをまとめるとこうである。

はてなにしかなくて、del.icio.usにはないタグ:

del.icio.usにしかなくて、はてなにないタグ:

  • trends
  • statistics
  • seo
  • internet
  • research

下手な分析、意味付けをしないほうがよい、という思いもあるのだが、し二つのコミュニティ全体の概念、文脈は結構違うんだな、という私の感覚をならべたてるとこんな感じだ。

米国サンプルdel.icio.usは、trends, statisticsが上位に登場している。日本語でうと、多分テクニカルな意味でのトレンド、統計、だ。何事も数値、アナリティカル、リーズニング、で教育をされているのでは、との私の思い込みを強化した。
あと、seoがトップに現れている。Google Trendsをみて、SEOとすぐに連想するってことは、この人たちは、SEOを身近にしている人たちなんだ、と推定した。日本サンプルではたった一人だった。

日本側は、google trendsという、固有名詞をタグにつけている人が多いのと、webサービス、サービスという言葉がついているところをみると、「サービス」という言葉を気にしている人が多いことが覗えた。「モノづくり」の国日本の中で、梅田さんのウェブ進化論に触発されて、いかに「サービス」(多分ネット上の)をものにしていくかを考えている人が多い、ということなのだろうか。

だとすると、米国サンプルの人たちは、サービスあたりまえ、SEOでサイトに集まる人を増やそう、という次元に生きているのに対し、サービスどうしよっか、ってのが日本の状況だって私は考えた。

以下付録である。

はてなtag数 はてなtag名 del.icio.us tag数 del.icio.us tag名
121 google 777 google
11 google trends 375 search
10 marketing 366 trends
22 search 238 statistics
14 web 174 tools
8 webサービス 137 marketing
6 マーケティング 131 seo
4 サービス 78 web
5 検索 57 internet
3 tool 56 research
1 *top 53 reference
1 _Index 37 web2.0
1 analysis 36 analysis
1 burst 33 visualization
1 data 30 business
1 googletrends 29 fun
1 internet 28 cool
1 keyword 26 news
1 lab 26 tool
1 le monde 26 trend
1 prediction market 24 stats
1 seo 23 analytics
1 service 21 comparison
1 statistic 21 data
1 trend11 20 service
1 trends
1 viral
1 web 2.0
1 web2.0
1 webservice
1 じっくり探れ
1 ウェブ
1 ネタ
1 モノサシ
1 便利
1 共通認識
1 念のため
1 検索エンジン
1 歴史
1 流行
1 言語
1 面白

浅い技術、深い技術と教育・IT産業、そしてより深い技術

今日は日記モード、しばらく前に、計算機科学の研究者としても有名なある若い技術者の方と夕食をご一緒する機会があった。その時聞いたこと、思ったことを備忘録として書こうと思う。この方は複数の重要な問題提起をされていた。


「深い技術」と「浅い技術」
おいしい魚と焼酎をいただきながら、この方とは初対面であるにもかかわらず、不思議と話が弾んだ。話の前半で話題になったのは、「深い技術」と「浅い技術」についてである。今の日本のネットでは、「深い技術」の大切さを知る人たちが少ない、というのがこの人の主張と嘆きだったかと思う。

「深い技術」「浅い技術」という表現を最初に聞いたのは、梅田望夫さんのブログか、パネルディスカッションだったか、著書ウェブ進化論の中でだったろうか。ここ数ヶ月前のことである。ライブドアの技術については、ここあたりで議論されているが、より広く知られる例として、Googleを例にとると、あの長方形の検索ボックスの向こう側では、膨大な数のPCサーバが動作していて、独自のファイルシステムあり、独自のWebサーバあり、独自のバイナリレベルのチューニング技術があり、独自のロードバランサあり、その上に常に進化・改良・改変を続けるPageRankアルゴリズムがある、とされている。OSそのものはLinuxだが、OSのかなり深いところから自家製だとされている。そのような「深い技術」がいたるところにあって、あの、長方形の検索ボックスがひょいひょいと当たり前のように動くのだ。

一方で浅い技術とは、Web2.0のいくつかのキーワードとしてでてくる、AJAXとかマッシュアップだとか、その辺りの技術のことをここでは指すというと、日本のネットでは、結構盛り上がりをみせているように見える。この方は、「自分は浅い技術もネタとしてやりますけど、深い技術の研究者。深い技術が好きです。」と言った上で、ネットの新しい潮流というと、この浅い技術とその応用部分が主に注目されて、「深い技術」の重要性を理解する、あるいは「深い技術」に取り組む人々がマイノリティである、ということを感じているらしく、日本の将来を懸念されていた。その一方で、Binary2.0などの動きが日本の中で始まっていることを、嬉しそうに話していた。

私はこの方の主張に対して、以下のようなコメントをした。「浅い技術は、深い技術の消費者そのもの、あるいは、エンドユーザと深い技術を結びつけるインタフェースの役割を担っている。これはあくまで私の思い込みだが(こことか参照)、何事も、消費者ドミネーティッドな動きでないと、深い技術と浅い技術が形成する全体系はうまく進化しない。その意味で、浅い技術の追求が、深い技術の発展をPullするという構図は、歓迎されるべきことだと思う。」


日本のソフトウェア産業
この方は、それはその通りだ、と、同意した上で、次のようなことをつぶやいておられた。「深い技術者と、浅い技術者のバランスは、どのくらいがいいのか、いつも考えるのです。例えば1:1程度がいいのか。」この方の発言を聞いて、私は次のようなことを考えた。基礎研究ができる体力のある日本の大企業でも、そういう時間のかかる深い技術にとりくむ研究者が削減され、かつそのまま削減されっぱなしであることを憂慮したほうがよい。深い技術へのデマンドがあるにもかかわらず、力のある企業が深い技術に再びリソースをアロケートしないとしたら、それは愚かなことだ。例えば、富士通がOS(FM Towns)を捨てた時はどうなるのだろう、と思った。そして、今でもOSを作れる技術者・研究者は少ないと聞く。

「深い技術」の追求よりも、また、「浅い技術」も追求せず、日本のソフトウェア産業は、開発を下請けに投げ、プロジェクトマネジメントをすることが偉い、という風潮があり、そういう構造が技術競争力を失う要因になっている、という指摘を私だったか、その方がしていた。この辺は、Life is Beautifulの中島さんの一連のエントリ(ここここここ)、XP日本ユーザ会の会長がここで議論を展開しているところとほぼ同様である。


日本の高等教育
私は、大学教育を日本で受け、博士課程は海外で受けた人間の一人だ。専攻を変え続けたため、例えば計算機科学の世界の基礎理論のうち知らないことの方が多い。一方、この方は、日本のある高等教育機関で計算機科学を基礎から叩き込まれたという。その彼が、日本の計算機科学専攻の学生が、計算機科学をろくに勉強もせずに大学を出ていることを非常に嘆いておられた。これでは、深い技術ができる人材が増えない、という危機意識である。合衆国の大学院では、基礎的なことをプロジェクトの形で体得するカリキュラムが当たり前で、大学院終了時の実力の差が日米に存在することを指摘されていた。最も興味ある話題の一つが、「教育問題」とされていた。


幼児教育
私は、彼の高等教育についての問題提起に対し、それは高等教育だけでなく、小さい子どもの教育から問題ははじまっている。むしろ、日本の平均的な人を生み出すことに最適化しようとしている教育全体の問題の一つの現れ方としてとらえたほうがいいかもしれない、と主張した。続いて、技術の話に関連するところでは、今の小さな子どもは、ゼロからモノを創る、という遊びをする機会がなかなかないことが、深い技術への探究心を失わせる要因になっているかもしれない、だから、教育を考えるときは、教育のかたちというもの全体から考え直さなければならないと思う、とも私は主張した。いつか、海外に日本人向けの学校を作るのが一つの夢である、とも発言した。


さらに深い技術
私が酔っ払ってきたためか、話は、さらに、「深い技術」よりもさらに深い部分への議論となった。計算機科学は、記号のみを扱う科学かというと、自然言語も扱う科学である。我々人間は、自然言語で会話をし、議論をし、記述する。突き詰めていくと、ある単語の「意味」とは何か、という議論になってくる。意味の定義は深遠な問いであるので、自分はとりあえずそこまで深入りせず、自然言語も記号として扱うという立場をとっている、とその方は発言した。私は、この方の発言を、「深い技術」のさらに向こう側に、「さらに深い技術」の世界があることを認識した上で、「深い技術」領域を扱っているのだ、と理解し、この発言を嬉しく思った。それで、神戸大学教授の郡司ペギオ幸夫の「意味の意味」の議論をちらっとすると、郡司さんを知っているというのだ。これには驚いた。私は、「自分は、その、さらに深い技術、という世界が好きなんです。例えば、ニュートンの第二法則が任意の時間で成り立っているという認識がありますが、それを疑うという立場で自分はある分野の実証的研究をしてきましたし、今も私生活の時間で継続しています。」と付け加えた。


最後に
このほかにもいろんな話をしたが割愛する。私はこの方との会話が嬉しかった。なぜだろう、と今、この議事録もどきを書いていて気がついたのだが、この方は、私の煩悩の構造の一極から別の極まで議論していたのだ。ウェブ進化論な世界には、技術としては、浅い技術、深い技術がある。さらに、深い技術を探求していくと人によっては、より深い技術の世界が待っている。言い換えると、浅い技術-深い技術-より深い技術、この3つを接続してとらえる見方を教わった。私は、「より深い技術」に興味があり、それと断絶した分野としての「深い技術」と「浅い技術」にも興味を持っている、と認識していたのだ。その断絶が自己の統一性に対し微妙な緊張をきたしていたのだが、この3つを接続する見方に、ちょっとだけ和まされた気がした。

「深い技術が好きなんです」様、体調が悪い中、議論の時間を、どうもありがとうございました。

I’m using this!とThis is mine!

子どもを育てていると、今まで気づかなかったことによく遭遇する。合衆国で育てていると、ますますそうだ。

よく、Preschool(日本の保育園に相当)に通う自分の子どもが、友達や兄弟との共有おもちゃの取り合いの過程で、こんな主張をする。

This is mine!

あるいは、こういう言い方をする場合もある。

I am using this!

前者は、後者に対してより暴力的である。誰がなんと言おうと、そのおもちゃは、自分の所有物だ、というでっちあげの主張を行っている。そこには、他者が入る余地がない。自分のThis is mineと、相手のThis is mineは、矛盾するからだ。

一方、後者はより控え目な主張だ。私が今使いつつあるの、という主張は、まさに今のプロセスをそのまま記述したものだ。このまま使い続けられるかもしれないし、次の瞬間、but you can use thisといって差し出す余地も残っている。また、そこには、先行して使っている人がそのおもちゃを使う権利をより強く持つ、という暗黙の規範性が仮定されている。そしてその規範性が覆されるかもしれない状況にある。それを受け入れた上での、この発言は、このおもちゃと、私とあなたの間の交渉の余地を否定していない。だからよりややこしいともいえる。

しかしながら、いつの間にか、ここ合衆国の大人たちは、

This is mine!

形式で議論をしているし、例えば企業内の組織構造をも暴力的に決定している。そのほうがわかりやすい、ともされ、うけがよかったりする。何を根拠にThis is mineといえるのか、そこには、その発言者が一番偉い、という主張以外に見出すものがない場合がよい。

「日本人」の特異性の一つ

梅田望夫さんのウェブ進化論は、結構、日本人や合衆国在住の人々の心理描写は結構さらっとしているとはいえ、「日本人はもっと(問題解決の取り組みに対し)楽観的であってほしい」という、メッセージが伝わってくる気がする。日本人は権威を含めて誰かがすでに言及したことは、ブログ圏でも自論として主張するのははばかられる雰囲気の中にいるが、米国の人々は自己主張してなんぼの社会に住んでいるので、そんなことおかまいなしに、ばんばん直球を投げてくる。これは梅田さんも著書で言及していた。自己主張してなんぼ、の社会で急速に発展するWeb2.0、つい、米国で育ったらなんで自己主張がこんなにできるのか? 米国在住歴の浅い私にはまだ体では理解できない。恐らく、日本人として体が記憶している感覚からすると「何を根拠にしてあなたは、あなたがそんなにも自信があるか、理解できない」ような状況に遭遇することしばしばである。渡辺千賀さんの白人熊説は、肉体的・精神的強靭さについての説だ。自信・自己主張についての説ではない。

そんなことを日々なんとなく考えているときに、目に入った報告書がある。

Benesse教育研究センターの調査速報版「幼児の生活レポート 幼児を持つ保護者を対象に
をみて、自らが所属する日本人について、結構愕然とし、かつその通りだ、と納得もした。

子どもを育て方は、結構、その人あるいはその国のかたちをあらわす、と思わせることによく遭遇するのは、私の気のせいだろうか? この報告書の13ページにある、アジア主要都市の母親に対する問い「お子様に、将来どんな人になってほしいと思いますか?」に対する答えの、都市毎(東京、ソウル、上海、北京、台北)の違いがきわだっている。(他の設問にも違いがでてきて興味深いが、本エントリでは省略)

東京できわだって回答率が高く、かつ、他の都市では際立って低い子どもへの要望その1は、「友人を大切にする人」、その2は、「他人に迷惑をかけない人」なのだ。このほかに、「自分の家族を大切にする」「仕事で能力を発揮する」「周りから尊敬される」「自分の考えを貫き通す」「社会のために尽くす」「のんびりと生きる」「経済的に豊か」「リーダシップのある」の選択肢が与えられている中での、回答結果がそうなのだ。
これは、私のバイアスならびに思い込みが入っているのは承知で言うのだが、これだけ選択肢がある中で、なぜそんなにも「友人を大切にする」「他人に迷惑をかけない」という選択をした母親が東京に多いのか? なぜ、という質問設定があまりよくないかもしれないし、決してこの二つが重要でないと主張するのではないが、日本人の勤勉さの裏返しの「我慢の蓄積」がそこに現れているように思えて仕方ない。きっと自分の子どもにそう期待するのだから、自分もそれをなかば唯一の美学として叩き込まれているのだろう。

人に迷惑をかけないように、「我慢する」。確かに、東京を歩いていて、人とぶつかっても、喧嘩を売ってくる人は少ない。なにか不満な瞬間が街中であっても、それに対して口を開いて表現しない。職場では当然、我慢、我慢、である。ここまで我慢が連続すると、そもそも、自分が本当の意味で何を考えて何を感じていたのか、わけがわからなくなってしまう、というのは、心理学者の平山典子氏が主張していることだ。自分を素直に、あかの他人にも伝わるように表現する、あるいは説明したあかの他人が賛成してくれなかったときに、きちんとうけ答えられる、そういう体験がほとんどなくなってしまうと、自分がわからなくなってしまう「自己喪失状態」になりがちなのだそうだ。

米国に暮らしていると、周りの自己主張があまりに、ずるがしくみえることもあり、エレガントなので、なるほど、その通りだ、と納得してしまう。

自己喪失状態の人間に、自己主張、あるいはそうとは言わなくても、自己表現はできない。いつもネガティブな気分、自己ラベリングをして毎日をしのいでいる人に、楽観主義は生まれない。ここシリコンバレーに不思議に漂う、しなやかな楽観主義は醸成されない。梅田さんの言う、日本に足りない楽観主義に大いに関係していることのように思えた。

これはおそらく、日本の国のかたちを示唆しているのかもしれない。それが、どうしようもない袋小路だとしたら、はてさて、どうすればいいのだろう。

「ウェブ進化論」を読んで泣きました

イスタブリッシュメントすなわちネットの「こちら側」と、「あちら側」に二股をかけている自分には、この本は痛すぎる。

梅田さんの「ウェブ進化論」を読んで泣きました、だなんて、泣いている暇あったら、とっとと自分の道を邁進せよ、とも思うのだが、これ、本当の話。梅田さんのエントリ「いま製作中の新聞広告で、ブログ書評から言葉を」に引用されていた江島さんの一言、

ネットはつまみ食いしてるだけという保守主義者は四の五の言わずとにかくこれだけは読め。たったの250ページだ。

に、複雑な共感を覚え、この泣けてくる感情を今日の独り言として、吐き出しておきたくなった。内容についての議論は、別エントリに書くとしよう。


この本の一番泣けた部分は、第三章「ロングテールWeb2.0」の「がっくりと肩を落としたコンピュータ業界の長老」の節だ。そのあまりに迅速な開発でGoogle自身や米国Yahoo Labを驚かせたという、はてなマップを、ある長老が目を輝かしながら、いくつかの鋭い質問をしたあと、がっくりと肩を落とした、というシーンである。

なぜ、こんなシーンに泣けたのだろう?

日本のコンピュータ産業を育ててきたこの長老が、惨めな敗北感を味わっている、その気分がかわいそうだ、と「同情」したのだろうか?

いや、単にそうではない。実は今、自分も「がっくりと肩を落とし」ている状態で、言い知れぬシンパシーを感じてしまったからだと思う。なぜ肩を落としているか? もちろん、この長老の功績ゆえの落胆とは、背景も内容も異なるが、今自分も挫折感を感じている。その挫折感とは、こんな感じである。

自分が多くの時間を割いている勤務先組織において、ネットのあちら側の大切さを訴えれば訴えるほど、身をもって示そうとすればするほど、周囲が白けていくような、「ああ、自分たちのビジネスとは関係ないことね、もっと自分たちのビジネスに関係ある部分で頑張ってもらわなくちゃ困るんだよねー。」と言われてしまう状況に自分が今いる。無論、周囲には、技術者でなくとも、ビジネスサイドの人間を含めて、理解者はいる。ただ、組織そのものには、ネットのあちら側で起きていることを謙虚にみつめるミームがない。組織内で勝ち目はあるのか、という自問に対し、無い、という答えが反射的に沸いてきてしまう。そういう挫折ムードである。自分の表現能力、説明能力、コミュニケーション側面での人格では、これ以上戦えないのかも知れない。そういう感じだ。この挫折ムードからすると、江島健太郎さんのエントリ、「梅田望夫氏の「ウェブ進化論」を読んで」の、

この本は、このブログを読んでるようなあなたのためというよりも、あなたが自腹を切ってでも上司にプレゼントすれば、無言でその真剣さが伝わるような、そんなメッセージの込められた本だ。

というくだりを読んで、全くだ、と頷いたと同時に、もしかすると、渡す本には、辞表をはさんでおくのかもしれないな、とも感じた。ネットの「こちら側」組織に属しているというアイデンティティと、「あちら側」を本能で感じてしまった自分のアイデンティティの分裂状態にいる。江島さんをして(上記エントリのコメントへの江島さんのコメント)、

最近、愕然としたのは、何年も泥臭く「こちら側」のビジネスをやってきて、最近また「あちら側」どっぷりの生活に戻ってみて、移動することは可能だが両方に同時に住むことはできない、ということに気がついてしまったことです。これは時間配分の問題ではなくて、宗教の違いなのでしょう。

「こちら側」に住んでいた頃は「あちら側」が素人くさいガキの世界に見えたし、「あちら側」に住むようになると「こちら側」の人たちが本質の見えてないバカに見えてくるんですよね。知識でも経験でもなく、ましてや真実でもなく、宗教としか表現しようがない。移行期の数ヶ月ほどは矛盾した自己を抱えて精神的に破綻寸前でした。

と言わしめている状況に多少類似しているだろうか。江島さんの場合は、アイデンティティのTotalityを、

結局、「あちら側」を信じることが最も自分に対してウソをつかない選択だったようです。今だから言えることですけど。。。

という選択で維持した。

数ヶ月前の話、ある30歳ぐらいの日本人の方と初めて食事をしたとき、「楽しく仕事できていますか?」と、ほとんど初っ端に言われた。きっと表情に、この大きな矛盾から来る、煩悩が現れていたのだろう。その時は、うぐぅ、とうなってしまって、「はい」とも「いいえ」ともつかない返事をした。この時の自分の「うぐぅ」な気分は今も忘れられない。

自分は、どうするのか? 何をもって決断するか。

冒頭に、イスタブリッシュメントすなわちネットの「こちら側」と、「あちら側」に二股をかけている自分には、この本は痛すぎる、と書いた。無論、痛いゆえの力をも与えてくれたことを付記しておく。この本がこの自分にとってのアイデンティティの危機の内容を言語化してくれたことが、現在進行形の自分の人格が相対する世界をより微細に観ることを可能にしてくれた、という点である。

泣いてしまう感性と理性があるだけ自分の脳みそは腐っていない、だから自分を褒めてあげる、ということで、取り急ぎ今日の自己発展は、現在進行中。

Web屋とSI屋論


id:naoya さんのエントリ、似たようなことをやってるけど実は違うことをやってる人たちを読んで、まず心和んだ。 id:naoya さんの思考の時間感覚が心地よい。


さて、本題。このエントリは、梅田さんのWeb進化論パネルディスカッションでの、時代の変化のスピードの予想についての議論(梅田さんは10-20年、その他のパネリストはもっと早く起こる)を、「文化の違い」「産業構造にも大きな違い」「二つの文化はまったく違った方向を指向していく。そしてその両者はなかなか理解しあえない。」という表現で、SI屋とWeb屋、メディア屋とネットを対置させて理解しようとされている。この辺の議論についてこの半年ぐらいずっと考えていたことを思い出しました。


実は、僕、SI屋なんです。


Web屋さん、というか、はてなをうらやましく思うSI屋なんです。理由はまた別の機会に。


そして、僕、デマンドドリブンとか、Consumer Powerとか言われるものが、世の中をつき動かすエンジンだと概念的に理解しています。簡単に言うと、リソースを消費する人が、結果として世の中をつき動かす、みたいな、イメージです。


最近、ネットって、低コストでデマンドについて勉強できる、一つの場所となってきてますよね。例えば、多くの人が、独り言を含めてネットに吐き出している。


このデマンドの持ち主を知らずして、ビジネスを語っちゃいかん、と思うのです。


んで、SI屋のお客さんって、長らくSupplier Dominatedな考えの企業が多数派なんです。この潮流で重要なのはSupplier側。だから、Supplierが保有している情報やリソースをがちゃがちゃ料理することがミッションだと思っている。顧客囲い込みとかして、顧客すらもSupplier側が「保有」したつもりになっちゃうんですよね。ブランドスティッキネスとか言われているやつ。


けどね、SI屋が企業の繁栄を支援するとしたら、デマンドの持ち主のことを、Supplierに教えてあげること、これを忘れちゃいかんと思うのですよ。


デマンドの持ち主がネットに住んでいるのなら、ネットにいってよく勉強しなきゃいけない。


僕にとってのWeb屋さんの代表、はてなは、ネットでのデマンドの大切さを天然で知っているように思える。その姿勢、つめの垢をいただきたいぐらいです。


デマンドの持ち主の住処が、ネットじゃなければ、ネットはネット。それだけの話。


けどネットの住人が増えてきた。


Googleはキーワード広告の形で、デマンドの持ち主のことをSupplierに教えることに成功した。そうみてます。

Web屋さんすべてがデマンドの持ち主の近くにいようとしているとは思いませんが、デマンドの持ち主のそばにいるための技術が、Javaよりは、アジャイルだとかRuby on railsだとかなんだろうな、ということだと思いますです。


僕にとってはそういう技術とか、SI屋とかWeb屋とかいう敷居よりもまず、Consumer dominatedなのかSupplier dominatedなのかという世界観の問題のほうが、大切な気がしているのです。僕は後者を大切にした企業・個人がだんだん少数派になっていくと思ってます。デマンドの持ち主のことをSI屋さんが無視してSupplierをちやほやするだけなのだとしたら、SI屋の将来はどうなるんでしょうかね、とも思いますし。


蛇足:
こんなこと書きちらかしていて、梅田さんの言う、日本語を磨くことの大切さを思い知らされた次第です。

The Wisdom of Crowds関係で

http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000050154,20096134,00.htm?tag=blogger.ranking

見つけたRichard MacManusがインタビュアーの記事。かのdigg.com。あ、最近O'Reillyのサイトが誰かのソースを盗んで使っていたとかなんとかいう、クレームがdigg.comのトップにあがってきて、論争があったっけ。

関連リンク
群集がいつも賢いとは限らない 「Wisdom of Crowds」の成立条件
http://mojix.org/2006/01/14/100147