「日本人」の特異性の一つ

梅田望夫さんのウェブ進化論は、結構、日本人や合衆国在住の人々の心理描写は結構さらっとしているとはいえ、「日本人はもっと(問題解決の取り組みに対し)楽観的であってほしい」という、メッセージが伝わってくる気がする。日本人は権威を含めて誰かがすでに言及したことは、ブログ圏でも自論として主張するのははばかられる雰囲気の中にいるが、米国の人々は自己主張してなんぼの社会に住んでいるので、そんなことおかまいなしに、ばんばん直球を投げてくる。これは梅田さんも著書で言及していた。自己主張してなんぼ、の社会で急速に発展するWeb2.0、つい、米国で育ったらなんで自己主張がこんなにできるのか? 米国在住歴の浅い私にはまだ体では理解できない。恐らく、日本人として体が記憶している感覚からすると「何を根拠にしてあなたは、あなたがそんなにも自信があるか、理解できない」ような状況に遭遇することしばしばである。渡辺千賀さんの白人熊説は、肉体的・精神的強靭さについての説だ。自信・自己主張についての説ではない。

そんなことを日々なんとなく考えているときに、目に入った報告書がある。

Benesse教育研究センターの調査速報版「幼児の生活レポート 幼児を持つ保護者を対象に
をみて、自らが所属する日本人について、結構愕然とし、かつその通りだ、と納得もした。

子どもを育て方は、結構、その人あるいはその国のかたちをあらわす、と思わせることによく遭遇するのは、私の気のせいだろうか? この報告書の13ページにある、アジア主要都市の母親に対する問い「お子様に、将来どんな人になってほしいと思いますか?」に対する答えの、都市毎(東京、ソウル、上海、北京、台北)の違いがきわだっている。(他の設問にも違いがでてきて興味深いが、本エントリでは省略)

東京できわだって回答率が高く、かつ、他の都市では際立って低い子どもへの要望その1は、「友人を大切にする人」、その2は、「他人に迷惑をかけない人」なのだ。このほかに、「自分の家族を大切にする」「仕事で能力を発揮する」「周りから尊敬される」「自分の考えを貫き通す」「社会のために尽くす」「のんびりと生きる」「経済的に豊か」「リーダシップのある」の選択肢が与えられている中での、回答結果がそうなのだ。
これは、私のバイアスならびに思い込みが入っているのは承知で言うのだが、これだけ選択肢がある中で、なぜそんなにも「友人を大切にする」「他人に迷惑をかけない」という選択をした母親が東京に多いのか? なぜ、という質問設定があまりよくないかもしれないし、決してこの二つが重要でないと主張するのではないが、日本人の勤勉さの裏返しの「我慢の蓄積」がそこに現れているように思えて仕方ない。きっと自分の子どもにそう期待するのだから、自分もそれをなかば唯一の美学として叩き込まれているのだろう。

人に迷惑をかけないように、「我慢する」。確かに、東京を歩いていて、人とぶつかっても、喧嘩を売ってくる人は少ない。なにか不満な瞬間が街中であっても、それに対して口を開いて表現しない。職場では当然、我慢、我慢、である。ここまで我慢が連続すると、そもそも、自分が本当の意味で何を考えて何を感じていたのか、わけがわからなくなってしまう、というのは、心理学者の平山典子氏が主張していることだ。自分を素直に、あかの他人にも伝わるように表現する、あるいは説明したあかの他人が賛成してくれなかったときに、きちんとうけ答えられる、そういう体験がほとんどなくなってしまうと、自分がわからなくなってしまう「自己喪失状態」になりがちなのだそうだ。

米国に暮らしていると、周りの自己主張があまりに、ずるがしくみえることもあり、エレガントなので、なるほど、その通りだ、と納得してしまう。

自己喪失状態の人間に、自己主張、あるいはそうとは言わなくても、自己表現はできない。いつもネガティブな気分、自己ラベリングをして毎日をしのいでいる人に、楽観主義は生まれない。ここシリコンバレーに不思議に漂う、しなやかな楽観主義は醸成されない。梅田さんの言う、日本に足りない楽観主義に大いに関係していることのように思えた。

これはおそらく、日本の国のかたちを示唆しているのかもしれない。それが、どうしようもない袋小路だとしたら、はてさて、どうすればいいのだろう。