I’m using this!とThis is mine!

子どもを育てていると、今まで気づかなかったことによく遭遇する。合衆国で育てていると、ますますそうだ。

よく、Preschool(日本の保育園に相当)に通う自分の子どもが、友達や兄弟との共有おもちゃの取り合いの過程で、こんな主張をする。

This is mine!

あるいは、こういう言い方をする場合もある。

I am using this!

前者は、後者に対してより暴力的である。誰がなんと言おうと、そのおもちゃは、自分の所有物だ、というでっちあげの主張を行っている。そこには、他者が入る余地がない。自分のThis is mineと、相手のThis is mineは、矛盾するからだ。

一方、後者はより控え目な主張だ。私が今使いつつあるの、という主張は、まさに今のプロセスをそのまま記述したものだ。このまま使い続けられるかもしれないし、次の瞬間、but you can use thisといって差し出す余地も残っている。また、そこには、先行して使っている人がそのおもちゃを使う権利をより強く持つ、という暗黙の規範性が仮定されている。そしてその規範性が覆されるかもしれない状況にある。それを受け入れた上での、この発言は、このおもちゃと、私とあなたの間の交渉の余地を否定していない。だからよりややこしいともいえる。

しかしながら、いつの間にか、ここ合衆国の大人たちは、

This is mine!

形式で議論をしているし、例えば企業内の組織構造をも暴力的に決定している。そのほうがわかりやすい、ともされ、うけがよかったりする。何を根拠にThis is mineといえるのか、そこには、その発言者が一番偉い、という主張以外に見出すものがない場合がよい。