浅い技術、深い技術と教育・IT産業、そしてより深い技術

今日は日記モード、しばらく前に、計算機科学の研究者としても有名なある若い技術者の方と夕食をご一緒する機会があった。その時聞いたこと、思ったことを備忘録として書こうと思う。この方は複数の重要な問題提起をされていた。


「深い技術」と「浅い技術」
おいしい魚と焼酎をいただきながら、この方とは初対面であるにもかかわらず、不思議と話が弾んだ。話の前半で話題になったのは、「深い技術」と「浅い技術」についてである。今の日本のネットでは、「深い技術」の大切さを知る人たちが少ない、というのがこの人の主張と嘆きだったかと思う。

「深い技術」「浅い技術」という表現を最初に聞いたのは、梅田望夫さんのブログか、パネルディスカッションだったか、著書ウェブ進化論の中でだったろうか。ここ数ヶ月前のことである。ライブドアの技術については、ここあたりで議論されているが、より広く知られる例として、Googleを例にとると、あの長方形の検索ボックスの向こう側では、膨大な数のPCサーバが動作していて、独自のファイルシステムあり、独自のWebサーバあり、独自のバイナリレベルのチューニング技術があり、独自のロードバランサあり、その上に常に進化・改良・改変を続けるPageRankアルゴリズムがある、とされている。OSそのものはLinuxだが、OSのかなり深いところから自家製だとされている。そのような「深い技術」がいたるところにあって、あの、長方形の検索ボックスがひょいひょいと当たり前のように動くのだ。

一方で浅い技術とは、Web2.0のいくつかのキーワードとしてでてくる、AJAXとかマッシュアップだとか、その辺りの技術のことをここでは指すというと、日本のネットでは、結構盛り上がりをみせているように見える。この方は、「自分は浅い技術もネタとしてやりますけど、深い技術の研究者。深い技術が好きです。」と言った上で、ネットの新しい潮流というと、この浅い技術とその応用部分が主に注目されて、「深い技術」の重要性を理解する、あるいは「深い技術」に取り組む人々がマイノリティである、ということを感じているらしく、日本の将来を懸念されていた。その一方で、Binary2.0などの動きが日本の中で始まっていることを、嬉しそうに話していた。

私はこの方の主張に対して、以下のようなコメントをした。「浅い技術は、深い技術の消費者そのもの、あるいは、エンドユーザと深い技術を結びつけるインタフェースの役割を担っている。これはあくまで私の思い込みだが(こことか参照)、何事も、消費者ドミネーティッドな動きでないと、深い技術と浅い技術が形成する全体系はうまく進化しない。その意味で、浅い技術の追求が、深い技術の発展をPullするという構図は、歓迎されるべきことだと思う。」


日本のソフトウェア産業
この方は、それはその通りだ、と、同意した上で、次のようなことをつぶやいておられた。「深い技術者と、浅い技術者のバランスは、どのくらいがいいのか、いつも考えるのです。例えば1:1程度がいいのか。」この方の発言を聞いて、私は次のようなことを考えた。基礎研究ができる体力のある日本の大企業でも、そういう時間のかかる深い技術にとりくむ研究者が削減され、かつそのまま削減されっぱなしであることを憂慮したほうがよい。深い技術へのデマンドがあるにもかかわらず、力のある企業が深い技術に再びリソースをアロケートしないとしたら、それは愚かなことだ。例えば、富士通がOS(FM Towns)を捨てた時はどうなるのだろう、と思った。そして、今でもOSを作れる技術者・研究者は少ないと聞く。

「深い技術」の追求よりも、また、「浅い技術」も追求せず、日本のソフトウェア産業は、開発を下請けに投げ、プロジェクトマネジメントをすることが偉い、という風潮があり、そういう構造が技術競争力を失う要因になっている、という指摘を私だったか、その方がしていた。この辺は、Life is Beautifulの中島さんの一連のエントリ(ここここここ)、XP日本ユーザ会の会長がここで議論を展開しているところとほぼ同様である。


日本の高等教育
私は、大学教育を日本で受け、博士課程は海外で受けた人間の一人だ。専攻を変え続けたため、例えば計算機科学の世界の基礎理論のうち知らないことの方が多い。一方、この方は、日本のある高等教育機関で計算機科学を基礎から叩き込まれたという。その彼が、日本の計算機科学専攻の学生が、計算機科学をろくに勉強もせずに大学を出ていることを非常に嘆いておられた。これでは、深い技術ができる人材が増えない、という危機意識である。合衆国の大学院では、基礎的なことをプロジェクトの形で体得するカリキュラムが当たり前で、大学院終了時の実力の差が日米に存在することを指摘されていた。最も興味ある話題の一つが、「教育問題」とされていた。


幼児教育
私は、彼の高等教育についての問題提起に対し、それは高等教育だけでなく、小さい子どもの教育から問題ははじまっている。むしろ、日本の平均的な人を生み出すことに最適化しようとしている教育全体の問題の一つの現れ方としてとらえたほうがいいかもしれない、と主張した。続いて、技術の話に関連するところでは、今の小さな子どもは、ゼロからモノを創る、という遊びをする機会がなかなかないことが、深い技術への探究心を失わせる要因になっているかもしれない、だから、教育を考えるときは、教育のかたちというもの全体から考え直さなければならないと思う、とも私は主張した。いつか、海外に日本人向けの学校を作るのが一つの夢である、とも発言した。


さらに深い技術
私が酔っ払ってきたためか、話は、さらに、「深い技術」よりもさらに深い部分への議論となった。計算機科学は、記号のみを扱う科学かというと、自然言語も扱う科学である。我々人間は、自然言語で会話をし、議論をし、記述する。突き詰めていくと、ある単語の「意味」とは何か、という議論になってくる。意味の定義は深遠な問いであるので、自分はとりあえずそこまで深入りせず、自然言語も記号として扱うという立場をとっている、とその方は発言した。私は、この方の発言を、「深い技術」のさらに向こう側に、「さらに深い技術」の世界があることを認識した上で、「深い技術」領域を扱っているのだ、と理解し、この発言を嬉しく思った。それで、神戸大学教授の郡司ペギオ幸夫の「意味の意味」の議論をちらっとすると、郡司さんを知っているというのだ。これには驚いた。私は、「自分は、その、さらに深い技術、という世界が好きなんです。例えば、ニュートンの第二法則が任意の時間で成り立っているという認識がありますが、それを疑うという立場で自分はある分野の実証的研究をしてきましたし、今も私生活の時間で継続しています。」と付け加えた。


最後に
このほかにもいろんな話をしたが割愛する。私はこの方との会話が嬉しかった。なぜだろう、と今、この議事録もどきを書いていて気がついたのだが、この方は、私の煩悩の構造の一極から別の極まで議論していたのだ。ウェブ進化論な世界には、技術としては、浅い技術、深い技術がある。さらに、深い技術を探求していくと人によっては、より深い技術の世界が待っている。言い換えると、浅い技術-深い技術-より深い技術、この3つを接続してとらえる見方を教わった。私は、「より深い技術」に興味があり、それと断絶した分野としての「深い技術」と「浅い技術」にも興味を持っている、と認識していたのだ。その断絶が自己の統一性に対し微妙な緊張をきたしていたのだが、この3つを接続する見方に、ちょっとだけ和まされた気がした。

「深い技術が好きなんです」様、体調が悪い中、議論の時間を、どうもありがとうございました。